ぐんま古墳カードサイクリング、
続いて向かうのは吉岡町にある南下E号古墳。
しばらく進むと、右前方に
老人福祉センターの看板があるので
その道を入ります。
するとその先にも看板がありまして
その下に南下古墳群への案内標識もあるので
そこを左折します。
こんなこと言ったら失礼かもしれませんが
古墳に見えない。
石室の中は立ち入り禁止。
入れたとしても、入る気がしない・・・。
読みやすいように?書き起こしてみました。
南下E号古墳
本古墳の所在する丘陵は、13,000年程前に
相馬山が山体崩壊を起こした際の流山(陣場岩屑流)
と考えられている。この丘陵上を中心に付近一帯には
かつて40基を越える古墳が存在し、
7世紀代を中心とする一大古墳群を形成していた。現在その数は10基程にまで激減しているが、
本古墳から半径約100mの内に7基の古墳が群集し、
当時の面影を僅かながらも残している。本古墳は先の丘陵東南斜面に構築された
山寄せ形式のものである。墳形及び規模は、現状で東西約17m、南北約9m、
高さ2mの円墳もしくは方墳と考えられている。墳丘における葺石(ふきいし)の有無は不明だが、
埴輪片は一片たりとも確認されていない。石室は、截石切組積(きりいしきりくみづみ )の両袖型石室で、
南西に向かって開口している。玄室はほぼ完全であるが、羨道部分は天井石を失い
側壁も上部を欠いた状態で、大半は土砂で埋没している。石室構造から見て、古墳南面には前庭が存在する可能性が高い。
現状での石室規模は、玄室長2.76m、同奥壁幅2.13m、
高さは奥壁部分で1.71mである。石室石材は壁体に二ツ岳噴出の角閃石安山岩を使用し、
天井石には硬質の安山岩自然石を用いている。側壁は長方形に加工した石材を四乃至五段に、
奥壁は三乃至四段に積み上げ、その大部分に
切組の手法を用いている。壁面には10度前後内傾する、所謂転びが見られる。
玄室と羨道の境には加工石材を二段積みにした
精巧な玄門を有している。本古墳で特筆すべきことは
玄室に壁面に残った朱線の存在である。これは、截石切組の工法と関連した作業線と考えられるもので、
本古墳のほか南下A号古墳、富士見村上庄司原4号古墳
でのみ確認された極めて例の少ないものである。古墳の年代は、石室の企画や構造
或いは石材に加工法等から見て、
7世紀末葉の構造で、南下A号古墳より
若干新しい時期のものと考えられる。平成八年三月三十一日
吉岡町教育委員会
かつてこの場所は、一大古墳群だったのかぁ。
ちょっと散策してみます。