自転車で来るのは2回目で
前回来た時は参道沿いのソメイヨシノが
満開でキレイだったのですが
今回は時期が遅くてだいぶ散ってました。
でも、こうして来られただけでも嬉しい。
大国神社について、鳥居の横に
解説があったので、一部引用。
大國神社
主祭神 大国主命
由緒
延喜式伸名帳に、「上野国大國神社」、上野国神名帳に
「従一位大國神社」と記されているのが当神社である。縁起によれば、第十一代垂仁天皇の九年(約一千年程前)四月より
天候不順で大干魃が続いたために、疫病が流行り人畜共に大半が死亡したという。これを深く憂い給いた天皇は、諸国にお名神に祈雨のため奉幣し、
東国には奉幣使として百済の車臨を遣わした。垂仁天皇十一年九月、その車臨が当地に来て老松の樹下に
一夜の宿をとった。(これが御手洗亀甲松である)翌朝、前の池で手を洗う白髪頭の翁を見つけ名を尋ねると
「吾は大国、主命なり。」と答えた。それを聞いた車臨は、「私は疫病平癒と降雨祈願のために、
天皇の勅を奉じて遣わされた奉幣使です。どうか国家の大難をお救いください。」
と嘆願した。翁は「よし、よし。」と答えるやいなや、その姿は立ち消え、
しばらくすると巽(東南)の方角から風が吹き始め、雨が降り始めた。この雨で池は変じて渕となり、以来、この地を渕名と言うようになった。
また、この降雨のおかげで草木は蘇生して五穀豊饒となり、疫病もおさまった。
天皇は車臨を賞して左大臣の位を授けると共に、
当地を下賜して大国主命を奉斎せしめた。同十五年九月、丹波国穴太郷より五媛の宮を奉遷して配祀神とした。
その後、称徳天皇の御代の神護景雲元年(七六七)、
勅を奉じて当地に来た徒五位上佐位采女が、
大国主命を国の造神と號し、渕名荘三十六郷の総鎮守として
当社の社殿を修造した。光格天皇の文化元年(一八〇四)現在の社殿に改築し、
明治七年には熊谷県北第十六第区の佐位・那波両郡四十二ケ村の
郷社に列せられた。さらに、同四十年三月二十五日、無資格神社御手洗神社、
八坂神社を合祀して今日に至る。
と書いてありました。
いい雰囲気で立派な本殿のある神社なのですが
社務所は閉まっていて誰もいませんでした。
しっかりお参りして、境内を散策。
自転車で来るにはちょっと遠かったですが
来た甲斐がありました。
桜はちょっと残念でしたが。